その前にもんちゃんとの出会いを書いてみます。
私は2010年5月に気になっていた写真家の作品をみにゴールデン街に行きました。その作品が展示されていたバーで月1くらい演奏することになりました。
12月、そのバーでもんちゃんの絵の展示をしていて、そしてクリスマスパーティがありました。もんちゃんは素敵なケーキを作ってきてくれた。
その時に話して、今まで触れたことのないような、触れたら壊れそうな、でもひりひりするようなすごく強いものを感じて、ショックだった。
なぜか前にあったことあるでしょ?という感覚もあった。
そこからいまに至る。
いつだってもんちゃんの考えてることは私にいいショックを”ガーン”と与えてくれるし、じゃあ私はなに??という自問が生まれます。
あ、長くなっちゃったのでそろそろいきましょう!!!
here we go now!!!!
㈰もんちゃんは毎日どういうふうに生きてますか?
作品とかのことをまいにち少しずつ考えて生きてるよ。
㈪もんちゃんにとって写真を撮ることってなんですか?撮ることによってどんなふうに変化がきらきら、またはぎらぎら、もしかしたら暗闇、が心に入り込みますか?
写真を撮ること自体は無になることです。相手や、カメラの前のすべてを受け入れようとしています。
あまり自分のことをかんがえてはいないな。
かなり冷静にとってると思います。
㈫1回目、夏にBLOCKHOUSEでへいし公演をしたとき、初めてへいしを聴いたと思うんだけど、どんな印象を受けましたか?
音楽も踊りもわたしとちがって、”遺らない”表現で、花火のような瞬間のうつくしさがあります。
そういうのは生きてることの讃歌にちかくて、あー、いいなあっておもいました。わたしの表現のなかではないから。
遺るものと遺らないもの について一番考えた時期だったかもしれません。
一番シンパシーをもつのはむしろ作曲家のほうで、ストラビンスキーだね。へんくつな人だとおもうけど、
とてもピュアで、とてもきもちがわかる気がした。
兵士の企画をしていたころは、自分にない表現やそういう人の思考を学ぼうとしていた時期なので、勉強になった。
㈬くまくんとわたしについて、一言お願いします。
同い年の、ちがう世界の作家として、ふたりをみると気付きをもらえています。
私たちのもつ差異について、そしておなじものについて
「ちがうこと」がたくさん学びをくれていて、ふたりをみると常にそれを思います。
そして作品を通じて,こころのうちがわにはいってきてくるかを、いつもたのしみに、してる。
㈭”潮目”について、そしてひとつのことを育てていくことについてもんちゃんの思い、感覚を教えてください。
ひとつのことをそだてていくことは、
たぶん素直になることで、それ以外の要素を捨てることで、
常に壊し、創り、不安定であることが安定的にあり、
”あなた”と”わたし”の境目がなくなり、
内側と外側がなくなり、
感情も越えて、
振り向いたときに勝手にできてる道みたいなもので、
それを自分ではなく外野の人が指をさし、「極めたね」と判断することなんだとおもう
※潮目とは
「潮目」とは、地元に住む片山和一良さんが旧越喜来小学校のかたわらにつくった津波資料館のこと。もんちゃんはチーム・オキライの一員としても活動しています。
私はまだいったことのない場所。原宿BLOCKHOUSEでの越喜来展ではたくさんの潮目の写真が展示されました。
今度、その”潮目”の写真集ができます!
ぜひこちらをご覧ください。
https://readyfor.jp/projects/okirai 常に壊し、創り、不安定であることが安定的にある。
生きるって常に動いている、変化しているの。
私がやっていることは形には遺らない、もんちゃんの作品は遺る。
形に遺る遺らないことは問題ではなく、その作品が持ってる時空がどれだけ心に食い込むか。
それはエッジが立ってる立ってないとかじゃないような気が最近はしている。作品の中に生きたいとおもう。